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助詞ノの謎を解く
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助詞ノの謎を解く●●●●●●
                                         岡本隆博  
●はじめに

私は速記をたしなむ。
すると自然に、いろんな語彙の出現頻度に敏感になる。
よく出てくる語彙(解くに助辞)ほど簡単な書き方で省略的に書かないと、スピードが出る速記方式にならないからである。
助詞の中では、なんと言っても多いのがノである。
日本語において、もっとも頻出する助詞……それがノである。
ひらがなの「の」が、結局いまの書きやすい形に収斂されたのは、その頻度の多さのゆえ、なるべく早く書きたいという欲求に答える必要性が高かったからとしか考えられないのである。
ひらがなのノは、特に連綿においては、リズミカルで書きやすいが、それを丁度90度回転させて裏返すと、英語のアルファベットの中で元も頻出するeの筆記体とまったく同じになるのは、決して偶然ではないと思う。

以下で、単にノと書いた場合は、すべて「名詞と名詞をつなぐノ」であり、「ガに換えても文として成立するノ」ではないことを、まずお断りしておく。

●なぜ「男の男」はおかしいのか

ノは、普通の文法では、
その前の名詞とそのあとの名詞をつなげて、両者に何らかの関係にあることを示すのみで、
その関係がどうであるかということまでは、示すものではない、とされている。
京大の教員の露伴氏によると、
「名詞と名詞をつなぐ「の」という助詞、即ち連体修飾機能にある
「の」 の結ぶ体言同士の関係には、格関係のような、意味論的な論理的関係性はありません。
「の」それ自体には意味なんてありません」
とのことである。
そして、辞書などには「所有を表すノ」「所属を表すノ」その他の例が羅列してる。
それはそれで妥当なのだが、
しかし、それで終わってしまっては、
たとえば、「師匠の師匠」「息子の娘」は成立するが「男の男」「男の女」は、なぜ成立しないのか、ということの説明は無理であろう。
「ホモのレズ」はおかしいが「オカマの彼女」なら言えそうだ。
なぜなのだろうか。
ノは、どんな名詞でもつなぐことができるのではないのか。おかしいな。
ということで、ここでは、その「ノの謎」に挑戦してみたい。

すなわち、私は上記のような無難な説明のままで終えるのでもなく、辞書にあるような羅列的例示的なノの分類説明で満足するのでもなく、もう少し掘り下げた、あるいは、ずっと上空から見下ろした、ノの本質というか、働きというか、役割というか、意義というか、そういうことについて考えてみたい。

●言葉は音声が基礎にある

まず、言葉というものは、どの民族の言葉であっても、まず話し言葉があるわけで、それを表す文字もあるのならば、あとでそれを表す文字ができたのである。(ただし人造語は別)
音声言語、言葉の中核であり、文字は、いわばそれの補助物である。

それで、我々は実際の会話の中で、どんな語彙でもみな正確に発音しているわけでは決してない。
紛らわしい発音の語彙を聞いたときには、文脈から判断して、何と言われたかがわかるのである。
しかし、固有名詞は予めその語彙を知らなければ、まず正確には聞き取れないし、数字は、よほどハッキリと言ってもらわないと、わからない。文脈で判断しようがないのである。
だから、速記者にとっては、新語や外国語の単語などの知らない言葉の他に、固有名詞と数字と新語が鬼門なのである。
これは実話であるが、私の知人の速記者が眼鏡技術者の座談会を録音して、速記原稿にしたものを私が推敲していたら、「イーベネンテ」なる単語が出てきた。文脈からして人名らしい。
そんな人がいたかな、と思って、発言者に尋ねたら、なんと「弓削先生」を、その速記者は「イーベネンテ」と聞いたのであった。

閑話休題。
ノも、もちろん、常にきっちりとnoと発音されているのではない。むしろ、いい加減な発音ですませていることの方が多いのである。
実際には、ノをほとんどoのような発音で話すこともあるだろうし、鼻が詰まっていればtoに近い発音で話すこともあるし、noよりもroに近い音声で話すこともあるだろう。
そして聞く方も耳で的確にnoと捉えているとは限らず、ro、na、mo、to、oのように聞こえることもあろうが、多くの場合には、文脈から判断して、そのような不正確な音で発せられた助詞をノだと理解して、その文全体の意味を受け取っているのである。
それはガとハでも同じことで、「岡本君はどの人?」という問いに対して「私*岡本です」という答えがあったときに、それがいい加減な発音であり、*のところを音声ではアで聞いたとしても、文脈からして、自然にガだと思うのである。
また、都はるみの歌で「忘れられない私*ばかね」の*については、彼女の歌を聴いても、ガ、ハのどちらだかわからないし、そのときには文法的にはどちらでもおかしくないので、聞き手はどちらかだと勝手に判断して聞くか、あるいは、そこまでは深く考えないで、はるみ節に酔っているかのどちらかだろう。

閑話休題。
ノと似た音の助詞として、ヲ、ナ、ト、モを、ノとの比較の対象にする。
これらは明確に発音をし分けられて話されているとは限らないし、正確に耳で受け取られているとも限らないのであるが、実際にはまず間違えて聞かれることはない。
その理由は、これらのどれもがノとは明確に役割(働き)が違う助詞だからである。
ではこれから、それらの助詞について、ひとつずつ検討してみよう。

まず、ノとナは、名詞につくか形容動詞(ナ形容詞)につくかということで、たとえどちらだかわからない音声で話されても自然に聞きわけられるのである。
「もっと正確*数字を出せよ」と言われた場合、*で発音された語彙がノかナかわからない音声であっても、この文ならノはあり得ない。
逆に「明日*天気はどうかな」であれば、ナはあり得ないから、即座にノだとわかる。
例外的に「健康」「安全」「平和」などにはノもナもつくが、たとえば下記のような違いで、どちらであるかがわかる。
・「健康」のあとに助詞がきて、次に「体」がついた場合と「本」がついた場合。
・「安全」のあとに助詞がきて、次に「方法」がつくか、「話」がつくか。
・「平和」のあとに助詞がきて、次に「世の中」がつくか、「鐘」「シンボル」などつくか。

次に、ヲとノについては、述語にかかるか体言にかかるかということではっきりと違う。
ノとモにも、そういう違いがあるが、音声はヲとノよりもさらによく似ている。
そして、それらが局部的に見て名詞どうしをつないでいる場合で、外形的にそっくりのものがあって、文としてはどちらでも成立する場合がある。 
1)僕ノ絵だ。
2)僕モ絵だ。
1)は「これは誰の絵?」に対する返答であり、2)は「A君はここでは彫刻よりも絵を見たいそうだけれど、B君はどっちを見たい?」に対する返答である。この場合も、ノとモの聞き分けがたとえできなくとも、その言わんとするところはきちんと理解できる。

逆にいうと、自然言語というか、エスペラントのような人造語(設計言語)ではない歴史的形成言語においては、こういうふうに、助詞で似た音の語彙が話されても文脈で聞き分けができるので、こういうふうに音声(言語学的には、音韻)がよく似た別の語が、同じような語順のその場所に配されているのだとも言える。
それは音の似ている二つの語彙(特に、その言語の基礎語彙)においては、鉄則とでもいうべきことであり、だからたとえば、速記では、ソノとモノ、コノとコト、オリマスとオモイマス、などの基礎的な頻出語彙で、音が似たもの同士はまったく同じ符号で書いても、文脈によってちゃんと読み分けができるのである。(そういう「同記法」を用いない速記方式もある)

●似た使われかたをする複数の語彙では

そして、品詞が同じで意味が正反対(あるいは全然違う)という複数の語彙においては、はっきりと聞き分けができないと命に関わるというようなことも起こり得るので、互いにまったく違う(かなり違う)発音でできている。
たとえば、仮にある言語で「前」をツエと言い、「後」をスエと言うとする。
仲間から「危ない!狼がツエから来るぞ!」と言われたを「スエから来るぞ」と聞き違えて、前へ逃げたら命取りである。
だから、歴史的形成言語においては、どの民族の言葉でも「前」と「後ろ」、「上」と「下」、「右」と「左」などは容易に明確に分けられる発音の対語となっているはずである。
ところが設計言語においては、ややもすれば、次のような案配になる。
場所を表す語彙成分をSPとして、時間を表す成分をTIMとする。(注1)
前をAS、うしろをOSとする。
そうすると、空間的な前方はSPAS、後方はSPOS、時間的な前方、すなわち「未来」はTIMAS、時間的な後方、すなわち「過去」はTIMOSとなる。
な〜んていう具合に作ったご本人は、その構成原理に酔っておられるのであるが、実際にこれが実用化されたら、耳で聞くと紛らわしくてわかりにくくて往生すること必定である。

なお、いまの日本語で「内部」と「外部」が、耳で聞いて紛らわしい。ほかにもそういう対語がある。
それらは明確に聞き分けられるようになっていなければならないのに、そうなっていない。
なぜそうなのかと言えば、それは元の外来語である中国の言葉を日本人の耳で置き換えた発音を持つ語彙だからであり、元の中国語では、昔からずっと、どの地域の言葉でも、発音と声調の違いでもって、「内」と「外」は明確に聞き分けられるようになっている。(そうでないと話がややこしくなるよね
もちろんであるが、我が国古来の大和言葉では「うち」と「そと」は、取り違えてはならないものどうしだから、お互いにまったく聞き間違うおそれのない発音になっている。

逆に、大和言葉のウエ(上)とフエ(笛)とスエ(末)は、発音は似ていていずれも名詞であるから、それだけを取り上げると紛らわしくてまずい語彙のように思えるかもしれないが、実際の文の中で話された場合には、文脈によってまず間違えないようになっている。
・*エの方から*エが落ちてきた。
・俺の方が*エの演奏技術は*エだろう。
・お坊さんがそんなことに手を出すようでは、世も*エじゃのう。
 ただ「私の*エの娘は」などの場合には、よほど発音が悪ければやや紛れる。でも、ま、これくらいなら命に関わるような紛れは出ないだろう。

もう一つ蛇足を言えば、たとえば英語の13と30、14と40、15と50などは、日本人が発音すれば紛れが出やすいのだが、ネイティブが発音すれば、アクセントの位置の違いにより明確に異なった発音の語彙として話されて明確に聞き分けもできるのである。
(英語は強弱アクセント、日本語や中国語は高低アクセント)

多くの人間によって長い年代を費やしてできあがった歴史的形成言語というものは、何語であってもそういうふうにできているのである。
個人が思いつきの浅い智恵で作った設計言語は、その足下にも及ばない。
しかし、エスペラントのように、すでにあった歴史的形成言語をベースにしたものにおいては、完全に哲学的(?)に一から作り上げられた、まったくの人工言語とは違って、いま述べたような不都合なことは、ほとんど見られないはずである。

●ノとトは、どちらも名詞をつなげるが

閑話休題。
次に、ノ と ト の関係においては、どちらも名詞どうしをつなぐ場合であっても、やはり文脈により識別できる。
たとえば、
あそこにいる男*女は、どういう関係なのかな?
の場合は、*はトしかあり得ない。
彼*車は、いまどこなの?
であれば、どちらもあり得るが、シチュエイションにより、判別される。
あるいは、そのシチュエイションにおいてどちらでもおかしくないのなら、どちらに聞いても意味は同じだから困らない。ただ、この場合は、普通はノだろう。

これはどういうことかというと、ノ も、ト も、どちらも名詞どうしをつなぐのであるが、ノはトとは違う働きがあるということである。

トは、前後の名詞を並列的につなぎ、あくまでも、それぞれに独立した存在のものとしての叙述なのである。
集合の図で書くと、その二者は離れた円となる。

一方、ノは前後の名詞を、一方が他方を包含すること(あるいは、一方が他方をより詳しく説明すること)を示す。
男の男、男の女、がおかしいのは、その場合には、メタの語彙同士であり、双方の集合円は離れているから、
一方が他方をより大きな円で包含することができない、すなわち、一方が他方をより詳しく説明することができないからである。
しかし、あの男の女、ならあり得る。
なぜなら、それであれば、前者は特定の男であり、後者はその男の愛人だという解釈ができるからである。
その女は、誰の女なのかというと、あの男の女である。
あるいは、その女性は、あの男の何なのか、といういうと、愛人なのである。

また、師匠の師匠、が成立するのは、少なくとも初めの「師匠」は特定の師匠を指し、あとの「師匠」はメタの師匠でも特定の師匠でも良いのだが、とにかく、一方が他方を包含でき、一方が他方をより詳しく説明している。
「あの偉そうにモノを言う人は、誰なの? うちの師匠の友達なの?それとも顔が似ているから兄さんなのかな」「いや、師匠の師匠なんだよ」という会話であれば、(うちの師匠の)友達でもなく弟子でもなく師匠なんだ、ということであり、あとの「師匠」の方が訴えが強い。
そうでなくて「あの師匠は(着物で、師匠の地位にある人だとわかる)相当に偉い人のようだね」に答えて「うん(うちの)師匠の師匠なんだ」と言ったのなら、前の「師匠」の方が訴えが強い。
この場合、「単に「あの人は誰?」に答えての「うちの師匠の師匠」であれば、初めの「師匠」と、あとの「師匠」の訴えの強さは、ほぼ同じとなる。
そして、同じシチュエイションで、「あの人は誰?偉そうにいばっているけど」の質問に対して単に「師匠だよ」では、どこの師匠なのか、誰の師匠なのかがわからないので、不十分な答えにしかならない。

●より詳しい名詞に

ア)秋の朝
イ)季節としては、いつの朝が好きですか?
ウ)秋は、どういう時間帯が好きですか?

イ)に対する答えとしてのア)であれば、集合図では朝の円の中に、それよりも小さい秋の円が全部はまりこんでいる。「朝」に「秋の」をつけることにより、より詳しい説明となっている。
ウ)に対する答えとしてのア)であれば、秋が大きい円で、その中に朝を示す小さい円がある。「秋」に「の朝」
をつけて、より詳しい説明をしている。
すなわち「その前後の名詞を一拍の簡素な音韻の語彙で結びつけて、どちらか一方の単独の名詞ですませるよりも詳しい叙述性を有する複合的な名詞にすること」、これが、トとは違う、ノなる助詞の本質であり、この「  」内の文の最後の「こと」を「助辞」に換えれば、そのままノの定義となるのではなかろうか。
ノ以外にこの機能を持つ語彙はありそうにないし、この機能を持てないノはないはずである。
ゆえに、これを「ノの定義」として、さしつかえはないと思う。

●叙述の短縮化

そして、他の助詞には見られない、ノの特徴的な働きとして「叙述の短縮化」がある。
たとえば、
「彼が述べた意見」を短縮して「彼の意見」と言える。
「彼の筆跡」なら「彼が書いた字の筆跡」の意味に相違ない。
「そのホテルの料理」なら、「そのホテルで出てくる料理」とか「そのホテルで注文して食べることができる料理」
とかいうことである。
こういう場合、仮にノを使わずに叙述せねばならないとすると、まどろっこしい限りである。

なお、俳句などでは、「秋の朝」とせずに、ひねって「朝の秋」とすることがある。
「秋の朝」を長く言えば「秋における朝」とか「ある秋の日の朝」とかになるが、その場合は特定の朝をさしているのか、それとも一般的なことを言いたいのかは、文脈がないとわからない。(俳句なら、その句を詠んだ、特定の朝である)
一方、「朝の秋」を長く表現すれば「朝に私がその雰囲気を楽しんでいる秋」とでもなろうが、これはメタではなくて眼前に見て感じている状態を表現している。(俳句だから当然なのだが)
世界で一番短い定型詩といわれる俳句で、こういうノがよく使われるのは、ノの叙述短縮化機能を利用できるからである。

このように「AのB」を「BのA」としても成立するという場合に、その順序が変わっても意味はほとんど同じという場合もあるが、意味が若干変わることも多い。
少し例示しよう。

エ)彼は日本ノ未来を背負って立つ政治家になるだろう。
オ)彼は未来ノ日本を背負って立つ政治家になるだろう。

この場合は、どちらでも意味は同じだと言える。

カ)そこへね、太郎のバカが、来なくてもいいのにノコノコやって来やがったのよ。
キ)おい、見てみろよ。バカの太郎がまた小さな子どもと遊んでるぜ。

「バカ」は「バカだ」という形容動詞(またはナ形容詞)の語幹であって名詞ではないのでは、という疑問もあろうが、バカに付ける薬、バカの壁、などの用例を想起すれば名詞として扱ってもおかしくはない。
それで、カ)では「太郎は愚かにも」という意味であり、そのときの太郎の「来た」という行動の愚かさについての叙述であり、太郎が常に愚鈍な人間なのかどうかは、わからない。
一方、キ)では、「もともと(いつも)バカである太郎」ということで、太郎の常態を表現している。

ク)たぐいまれな天才の次郎は、20歳で未解決だった○○の定理を証明してしまった。
ケ)次郎の天才は、おそらく母親からの遺伝によるものであろう。

ク)の「天才の次郎」は当然「天才であるところの次郎」ということだが、ケ)の「次郎の天才」は「次郎が持っている天賦の才能」ということである。
ということは、この場合は、元々ク)の「天才」とケ)の「天才」では意味が違っており、前者は「天才である人間」、後者は「天才性」のことであるが、それゆえに個人名とのノによる結びつきの順序がこのように変わるわけである。

また、AノB、が、BノA、と順が変わると、意味が、若干どころか、かなり違う意味になってしまうことも、もちろん多い。
「世界のビートルズ」と「ビートルズの世界」であれば、前者は「世界的に活躍して有名なビートルズ」、後者は「ビートルズの音楽の紹介」というものである
「スズキ自動車の鈴木修」と「鈴木修のスズキ自動車」であれば、前者は「スズキ自動車の社長である鈴木氏」のことだが、後者は「鈴木氏が統率するスズキ自動車なる企業」の意味である。
どちらの例も、かなり内容が違う。
また、「A氏の秘書」と「秘書のA氏」では、まったく別の人物を指している。もちろんだが前者は「A氏の下でA氏を助けている秘書」、後者は「誰かの秘書をしているA氏」のことである。
前者では「A氏ノ」によって、誰に所属する秘書であるかを説明しているのであり、後者では、「A氏」がどういう職種の人物であるかを「秘書ノ」によって説明しているからである・

ス)彼の批判を聞いたけれど、感心できないネ。

文脈がなくてこれだけだと、彼が受けた批判なのか、彼が誰かになした批判なのかは不明である。
これも、一種の「ノのあいまいさ」だと言えよう。

なお、この「ノによる叙述の短縮化」は、すべてのノに例外なく言えることだと私は考えている。
まだ「そのノを使わずに別の言い方で長く言うことはできない、そういうノ」の例は、私には考えつかないからであるが、
もしそういう例があれば、教えていただければ幸いである。
なお、
足の領域における先 → 足ノ先 → 足先
右の方向へ向かっての端 → 右ノ端 → 右端
北から吹いてくる風 → 北ノ風 → 北風 
今年度における末 → 今年度ノ末 → 今年度末
という例のように、とりあえずノによって短縮化されたものを、さらに簡略化できることもあるから、どんな例においても、ノを使う場合よりも、そこからは短縮はできないというわけではない。

●ノのぼかし効果

それから、ノによって短縮化をしたゆえの副作用というか、副次的効果というか、
意味の曖昧化が生じることがある。
先に述べた「彼ノ批判」も、その一例である。
そして、その曖昧化を逆手にとって、ぼかし効果を演出することもできる。

コ)世界のナベアツ

ナベアツと世界がどういう関係があるのかは、まったくわからないのだが、
もともと、その関係などとりたててあるわけではなくて、芸能人として目立ちたいためにハッタリをかましてこういう芸名をつけたのだろう。
世界的に有名なナベアツ、とか、世界各国に行って活躍しているナベアツ、というのが本当なら、それを短縮して「世界のナベアツ」と言ってもよいのだが、そこまでは本人も誰も思っていない。
でも、勝手にそのような誤解をしてくれる人がいたら儲けもの、というところであろうか。

サ)人民の 人民による 人民のための政治

人民による政治、人民のための政治とはどういう政治なのか、説明がなくてもそれはおよそわかる。
しかし、「人民の政治」と言われても、他の説明がなければどういう政治なのかはわからない。
「人民」と「政治」を単にノで結んだだけだから、人民と政治の関係はわからないわけである。
それは、聞いた人が勝手に解釈すればよいということなのだろうか。

シ)会社は誰のものか?

ひところ、よく発せられた問いである。
 この問いに対して、たとえば「株主のもの」と言ったら、それは法的な「所有」を表しているのだから、会社が株主のものであることは、まあ、当然だ。
 では「社員のもの」と答えたらどうだろう。その場合に、「社員がそこで生き甲斐を持って働き、社会に貢献をし、自分の生活の基盤とする収入を得るためのもの」ということを短縮化して「社員のもの」と言ったのであれば、それも確かにそうである。
 そして、そんなに長い内容のことを、ノを使えば「社員ノもの」と、5字で言ってしまえるのだから、ノは、話す方にとってはまことに便利な助詞だと言える。
 ノは受け手本位ではなく語り手本位の助詞……と言えるかもしれない。
 また、この問いの場合、「経営者のもの」と言っても間違いとは言えない。
 経営者が責任を持って運営して、利益を出して株主に配当を渡し、社員の生活を保障するものが会社なのだ……ということで「経営者のもの」と言っても、それもやはり妥当だからである。
 だから「会社はだれのもの?」という問い自体が、その意味するところが曖昧なものであり、それゆえに、元からそれについては、一つの正解などあるわけがないのである。
 もしも、そういう曖昧さを排除して答えを得たいのであれば、たとえば、「会社の(商法上の)所有者は誰か」とか「会者は誰の人生を豊にするためのものか」などと聞かねばならないのである。

ス)みなさまのNHK

 法律で決められたみなさまからの日ゼニ何億の受信料で営業努力なしにやっていけるNHK、の略が「みなさまのNHK」ということの意味なのであろう。
 まさか不遜にも「国民のためのNHK」だなんて言いたいのではないと思う。
 北京放送局日本支局と言ってもよさそうな、その政治的偏向ぶりは、NHKの歴史観が東京裁判史観から一歩も出ていないことを示している。  
 国益に反する放送局であるNHKには「みなさまのNHK」だなんて言ってほしくないと私は思う。

 このように、二つの名詞をノでつなぐことにより、その前後の名詞の関係を、適当にぼかして、思わせぶりな叙述ができるという働きも、場合によってはノは持っているわけであるが、それをわきまえていないと、意図的ではないにしても、ノを使うことにより、不本意ながらどうにでも解釈のできるあいまいな叙述をしてしまうということになるおそれもあるわけである。

以上をまとめると、
ノの本質は
・前後の名詞をつないで意味をより詳しく説明する。
ということであり、
特徴的な機能としては、
・前後の名詞を1拍の語彙で結合して、表現を短縮する。
・前後の名詞の関係を曖昧にして、ぼかした表現にすることができる。
ということがあるのである。

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(注1)こういうのを言語学では「形態素」というらしいのだが、私はこの用語はおかしいと思う。この「素」が言葉で有る限り、何らかの形態を持つのは当たり前であるから、これはむしろ「意味素」と呼ぶべきではないかと、私は言いたい。

参考文献
 
以上、特定の参考文献はありませんので、著作権侵害のおそれは皆無です。(一部に二次引用はありましたが(^_^)、その原典は不明です)
あえて言えば、私が若いころに読んだ下記の本の内容から記憶に残っているところを少しもらっています。
(私の本棚を探しましたが、見つかりませんでしたので出版社名は書いていません)




参考

パウロ・ロナイ『バベルへの挑戦』 1973




この本が出たころ、本屋で見つけて買って読んで、読後感想をエアメールで著者に送ったら、ちゃんと返事が来ました。




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こちらにもどうぞ
ガとハについての4つの公式



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